人生の退屈を覆す「“意思決定の力”」

000blogでは「One ofIdea」を一つのコンセプトとしています。色んな考え方に触れて「自分が何を感じるか?」これを読んでくれている人が「何を感じるか?」そんな様々な感性を「全部いいよね。一つの考え方だよね」と受け入れながら、“多様な感性の旅”みたいなものをとおして、感受性を刺激しあえたらいいな。と、いうテーマで日常における感動したこと、感性に響いたことなどを記録しています。

 

今回は、「意思決定」という視点が豊かさにつながるというお話です

それというのも私自身はもともと過去の長い期間を「無感情」に生きていた事があります。特に学生時代の自分を思い返すと一喜一憂はあれど、心から感動したり楽しいと感じたことはなかったように思います。

どこか世の中を否定的に眺め、斜に構えてとらえていました。

それでも今は、自分が選択することを“めちゃくちゃ楽しんで”生きています。

今回のお話は、そんな過去の私と同じように、言いようのない退屈を感じているという方にとって、その退屈から抜け出すためのエッセンスをお届けできればと思います。

途方もない退屈の原因は「恐れと正しさ」

無感情には無感情にならざるおえない理由がある

「無感情」の原因は自身の性質やその他の影響などからくるものだったりすると思います。

否定的な言動や過干渉など、大なり小なり自尊心を削られるような不都合なことや煩わしいことが日常になると自分を守るためにも「感性」をフル稼働して生きることは難しくなります。

“「私」という存在”が安心できる場所がないという不安感=恐れだと私は思っています。

きっとこれを読んでくださっている方の中にも同じ気持ちをお持ちの方は多いと思います。

そうして拗らせた「無感情・無感覚」は、本来求めたいはずの「希望や喜び」すらもわからなくさせます。

恐れを克服するための武器としての正しさ

周囲の環境に対する恐れや疑いから社会を“敵”として見た時、常にそれらの不安感を克服するために、「思考」をめぐらせ、排除や批判を受けないための「絶対的な正しさ」を求め始めます。

しかし、その「正しさ」の答えは常に他者にあります。その理由は何のための正しさかという動機にあると思います。

“排除や批判を受けないための”“社会をやり込めるための”武器ですから、常に視点は社会や他者の動向を伺っている状態です。

もちろん全てのことが該当するわけではないですが、根本にはおおよその割合でこうした観念が自然と植え付けられているものだと思っています。

魂を削る「正しい」という過ち

社会や他人にとっての答えというのは、大抵の場合「根拠」に基づいた何かによって共有されています。

そうした「一般的な正しさ」というものが基準になると、自分が導き出す答えにも「正確性」を求めるようになります。

そうして悩んだ末に答えを見出せない時、「批判的な存在である私」は何もできないことを証明するかのように多くの場面で歯痒さを感じることになります。

人を悪として見た時、その愚かな人は自分でもあることを知っている(思い込まされている)からです。

 

剣と盾

本来自分を守るための「防御も武装も」間違いではありません。

ただその部分で一色に染まってしまうと盾も剣も自分を苦しめる“使い方”をしてしまうことがあります。

そしてそれが「“私を生きられない”途方もない退屈」の原因であると私は考えています。

今回、私がお話ししたいのは“使い方”を変えるとは「何のために」という目線を変えること、そしてそれが社会ではなく自分自身を生きるためであるということです。

視点の変化をもたらした一撃

 

「“イメージが先、現実が後”」

 

これは私の「生」に対する視点を180度転換させた言葉です。

社会人3年目くらいの頃、友人に誘われた怪しげな経営セミナーに参加したときに教わったことです。

怪しげではありましたが、嘘か本当かそこにいた人たちは少なくとも“自分を生きる”ことに真摯に向き合いワクワクしている人たちばかりでした。

そして何より「現実は自分でつくる」という言葉は私にとって紛れもない真実でした。

その言葉を聞いた瞬間あらゆるしがらみから解き放たれて開放感とワクワクが自分の中から湧き上がってきたのを今でも“明確に”覚えています。

単純ですが、「答えは探さなくていい、つくればいい」

それは要するに他者にとっての正解ではなく、自分にとっての“想い”を大事にすることです。

「〜であらなければならない」という義務感ではなく、「“したいからする”」という自分自身にとっての正しさに従うことにほかなりません。

これが自分を被害者にさせない、“自分を生きる”の清々しさにつながっていると思います。

「意思決定の力」がもたらすこと

本来の力を思い出す

「“やりたい”“なりたい”“だからそうする!”」

自分の意志を素直に受け入れ、決めた時、それまでの自分では想像もしていなかったような現実が現れます。これは魔法ではなく、紛れもなく自分自身で引き起こしたことです。

例えば私の場合は自身でコンテンツを作成し、売上を立てるといったことを実現させました。それまで無気力に生きていた人間が、目的を持って学習し、プロジェクトの一つのサイクルを自分の力でやり遂げることをしています。

今はそうした経験を含め、自分が学んだことをもとに新しいことに挑戦したり、こうしてブログを書いています。

何かに挑戦すること自体、過去の私からすれば奇跡とも思えることをやっています。

そして、何より最も大きな収穫は「自分が本来力のある存在である」ということを思い出せることです。

これは私自身に限ったことではなく、「“あなた”も力のある存在です」

少なくとも、多くのことに傷つき塞ぎ込んだとしても、こうしてどこか自分を打破したいと思い情報に目を向けている。自分という存在を生かすことから、逃げずに向き合い続けたとてつもなく強大な力を持っている存在です。

退屈を覆す意思決定の力の具体的な意味

意思決定が現実を変化させるのはマインドだけの話ではなく、行動にも変化をもたらします。それが調和して現実になるのはごく自然なことだと思います。

ここではその具体的な理由を付け加えておきます。

未来と可能性に向ける視点

これまでは、恐れや不安から「何が正しいか?」という答えさがしに費やしていたエネルギーですが、私が「正しいと思ったことをする」と決めた瞬間、どこに向かうかは決まっています。

「知っているのだから迷わない」原因や問題ではなく未来に向かう視点で物事を捉え始めます。

そしてこれが行動を起こすための明確な動機になります。

逆算と計画

行く先が決まっているのであれば、自ずと道も生まれます。

どこに行けばいいか?迷いの場で右往左往していた自分はそこにはいません。後は行き先に合わせて、必要な道具を揃えるだけです。

同じ道を辿った人の真似をしたり、ゴールを完成させるために必要な要素をリストアップして一つずつ実践していきます。

思考は整理され、理想に近づいていることを体感します。

成功確率が上がる

引き金を引けば結果として弾は当たらないこともあります。

しかし引き金を引かなければ、その方法では弾が当たらないということもわかりません。

ただ失敗したのではなく、成功するために失敗する選択肢を理解しただけです。

そうして細かな失敗と成功を繰り返すことで、最終的に理想とする成果や再現性の高い成功法則、能力を手にすることができるようになるものだと、私は思っています。

失敗を許容する

原因ではなく、可能性に目を向けたとき例え失敗したとしても、「とりあえず次の解決策を見つければいいか」と、軽い感じで失敗を受け入れることができます。

正しさや根拠に執着すると、一度の失敗すらも、自己否定や行動を止める理由になります。

そんな時は「失敗」がとてつもなく高い壁に思えますが、過ちよりも可能性に目を向けることでその執着が薄れていきます。「過ぎたことよりも次の展開を完成させることのほうが大事だからです」

その結果、行動や体験のサイクルも加速します。同時に何度も試行錯誤することで、「失敗は“普通”」であり、そんなことで自分の未来への道を塞ぐことが勿体なく感じます。

行動が早い人は失敗を許容することができます。

とにかく楽しい=継続する力

皆さんも何かしら「ゲーム」をされたことはあると思います。ゲームはミッションがあり、そうした問題をクリアすることで楽しむ“遊び”ですが、意思決定によって生まれた目的を達成することも、私はこれと同じだと思っています。

ただ違うのは、クリアする対象が他人に与えられた課題やルールではなく、自分が選択した、純粋な想いであるということです。

こんな最高な“本気の遊び”は他にないのではないかな?と、私は思っています。

そうして楽しむからこそ、その目的が仕事であれ、娯楽であれ、自然と継続する力になっていきます。

楽しくてしょうがないから、手を出さざる負えないといった状態です。

 

建築_人

非常に現実的な話ですが、行動があるからこそ物事は飛躍的に実現に近づきます。

意思決定は「動機、目的(理想)、計画、行動」これらの過程を全て網羅する原点です。

“私”が感じたこと、選択したことに対し「軽やかに実現に向かう原動力であり循環をもたらすこと=意思決定の力」だと私は考えています。

上手くできない時に注意したいこと

心のブロック

常識や観念、これまで植え付けられてきた「当たり前」がルールとなり自分の本音に制限をかけることがあります。

「危ないからやめておこう」「できそうにないからやめておこう」正しさというベースが「本音」を塞ぐブロックになっています。

そんな時は「どうしたいか?」という自分の本音に耳を傾けて「怖いけど“やりたい”」の「〜したい」に目を向ける比率を少しずつ増やしてみて欲しいと思っています。

「現実は自分でつくる」を自分に許せると、例えばこんな発想もありになってきます。

危ないと感じるならば、やめるではなく、「“やりたいことをやる前提でリスクを排除すればいい”」

責任感や焦りより「なんとなく」がいい

意思決定は自分の選択を自分が応援するためのものです。焦らせたり、そのルールによってがんじがらめにするものではありません。

むしろ、「決めたからには絶対にしなければならない」となった時は危険信号です。

矛盾するようですが意思決定をすることだけが、自分を生きる正解ではありません。

絶対的な正しさを持つということは、同時にそこから外れることへの恐れを生み出します。

これをすると先程『失敗を許容する』の項目でお話しした、過ちへの執着における正しさの指標が社会や世間から、自分に変わるだけで、自分の中にも自分の敵を生み出しかねない結果となります。

「ただなんとなく、したいからする」くらいの軽い気持ちがおすすめです。

実は私は過去にこの点で非常に苦しみました。物事がうまくいっている時は「楽しんでいる時」です。逆に滞った時は「義務感」満載で自分ルールで自分を縛り付けていました。

「〜しなければいけない」になると物事を楽しむよりも処理することが前提になります。それは結果として工夫や集中力の欠如といったパフォーマンスの低下からプロジェクトの品質を落とすことに繋がります。

最後に

これまで「一般的な正しさ」に目を向けていた自分を急激に方向転換することは、最初は慣れないことなので難しいと感じることもあるかもしれません。

しかし、例え上手くできなかったとしても間違いではありません。心の動機はどんな形であれ自分を守るために動いてくれています。

失敗したり、上手くいかなかったとしても、向き合うという行動が「本音ベース」への自分に近づけます。

できなくてもまたやればいいのでOKです。

100%の成果がでなかったとしても、“体験し”、失敗したり、1%でも成功しているなら、何もしなかった時よりずっといいと私は思っています。

周囲や他の何かよりも自分の声に耳を傾けて“本気の遊びを楽しんでください”。

選択の主導権を自分に取り戻した時、自分は力のある存在だということを実感できると思います。

参考になれば幸いです。

「ムリだっていうのはいつだってチャレンジしてない奴よね」

出典:井上雄彦[スラムダンク「あれから10日後・・・」]